テリヤキバーガーとリアリティについて

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今日は無駄だけど無駄でないものについて書いていく。

ブログを書く際に、簡潔に必要なことだけをまとめるという意識の元、文章を書いている人は多いと思う。特に賢い人にこれはありがちだ。

書かなくていいことは書かない。彼らはそう考える。だが、「面白さ」とは決して、必要な部分だけを書き連ねればいいという問題ではない。

漫画や映画で面白いと言われるシーンは「戦闘シーン」や「感動シーン」といった一部分だ。全部が面白いと言われる作品はほとんどない。「面白さ」とは緩急であり、「面白くない部分」があるから、「面白さ」が際立つ。つまり、表裏一体。太陽と月。朝と夜。陰と陽。これらと同じように「面白い」部分だけ書こうとしてできた文章は結果的に面白くないものになる。
 

そこに緩急がなく、エッセンスは詰まっているかもしれないが、それ故にどれも輝かない。漫画や映画では一見、「こんなシーンいらなくね?」と思うような日常のシーンが実は「面白さ」を際立たせているのだ。

文章も同じで、ダラダラ長ったらしいものは悪だと決めつける人もいるかもしれないが、緩急さえあれば、それは良い文章と言える。緩急があれば、読まれるからだ。エッセンスだけが凝縮されたものは概念だけをこねくり回したかのような文章になり、食事で言えば、肉だけを食べているような感じになる。
 
だから、僕はよく例え話を用いたり、わかりやすく伝える工夫を施す。これは決して、文字数を稼ぐためにやっているわけではなく、「リアリティ」を演出するために必要だからやっているのだ。

「リアリティ」とは「この文章はケッキング山田が書いたんだぞ!!」ってことをアピールするための演出のことだ。エッセンスだけを抽出して、コンパクトにまとめて簡潔に書けば、手軽に伝えたいことを伝えられるかもしれないが、そこに人間味が出ない。

機械が吐き出したかのような文章が完成してしまうから、独特の比喩表現や多くの人が思いつかないようなものをつなげて表現する。そうやって、文章をより人間っぽくしていく。
 

誰が書いたのかわからない文章をいくら積み上げても、リピートして読んでもらえない。読者の意識を「ケッキング山田が書いた文章が読みたい」という風に持っていかなければならないから、文章における「リアリティの演出」は必須なのだ。

僕は「視点を提供する」形で文章を書いているから、比喩で差別化を図ることをメインとしているが、物語形式で書く場合は「実際の行動」を描写するといい。

「マクドナルドに行きました」という情報を伝えたいとすると、これをどこまで具体的に表現できるかで、文章から滲み出る「人間味」というのは変わってくる。

「マクドナルドに行きました」だけだと、誰でも言ってそうだから、そこに個性は出ないし、人物像が見えない。これを具体的に表現すると、

昼の12時に起きて、お腹が減ったから、テリヤキバーガーのセットを買うために、徒歩で30分、車で5分ほどの距離にあるマクドナルドに向かって、車を飛ばした。ランチのピークの時間帯ということもあり、マクドナルドの敷地内で小さな渋滞ができていた。10分ほどドライブスルーのところで待たされたが、ようやくお目当てのテリヤキバーガーを買うことができた。

と、「マクドナルドに行きました」という情報に直接関係ない「実際の行動」を描写することにより、文章に人間味が出る。この作業により、「あぁ、これはこの人の物語なんだな」と思ってもらえるのだ。
 
書籍などからヒントに学んだことを発信したい場合は、オリジナルの比喩表現を用いて、差別化を図るということがおすすめだが、日常からの学びを言語化したい場合は「実際の行動」をしっかり書くことで、「人間味」を表現することができるのだ。

多くの人が必要ないと思うところで実は差がつく。「面白さ」とはどれだけ文章からその人という人間が滲み出るかで決まる。書き手の顔が見えない文章はゴミだ。

機械になるな。人間であれ。これは絶対に忘れてはいけないことだと、僕は思う。

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